芸術家・池田満寿夫の作品と買取金額について説明
芸術家・池田満寿夫の作品と買取金額について説明
はじめに
1934年2月23日は何の日でしょうか?
今上天皇の誕生日であり国民の祝日と答える方が一般的でしょう。絵画・美術品の専門業者としてはこの作家の誕生日としてお伝えしたいです。
池田満寿夫(1934年~1997年)です。版画家で、小説執筆、映画監督など多分野にわたり多彩な活動をつづけた芸術家です。晩年はメディアにも露出して世間での認知度も高い作家でした。メディアを積極的に使用した岡本太郎とセルフプロデュースは似ているかもしれません。
先鋭的でデザイン性が高い作品が特徴的で具象とも抽象ともいえない唯一無二の様式を確立しました。美術作品に限定すると版画作品が多いですが、油絵やデッサンなどの直筆作品も後世に残っています。
油絵などの原画作品よりも人気が高い版画作品の方が高価買取しやすく、作品によって大幅な価格差がでる作家です。池田満寿夫の簡単な略歴や近年の市場評価を紹介します。
池田満寿夫の市場価値(版画)
池田満寿夫は日本芸術界にとっては重要な作家で世間にも広く認知されているのではないでしょうか。版画という特性から作品数も数多く出回っているため、よくお問い合わせをいただきます。当然知名度と市場価格は比例することが多いため高価買取を期待している方が殆どですが、その期待を裏切ってしまうことが大半です。
池田満寿夫の版画作品の多くは市場価値が低く、高価買取ができるのは1960年代に制作された一部のみです。
具体的には
1965年制作「楽園に死す」→30万~40万前後
1965年制作「聖なる手1」→30万~50万前後
1966年制作「バラはバラ」→40万~60万前後
などです。
このような代表作以外は1万~2万円前後の買取査定額になることが多いです。あとは作品の技法で判断します。細かい技法を上げるときりがありませんのでリトグラフと銅版画に大別すると、銅版画作品の方か市場価格は高いので参考にしていただければと思います。
池田満寿夫の市場評価(原画)
池田満寿夫の油絵は版画作品の代表作ほど値段は付きませんが、安価な版画作品よりは高価買取が可能です。1980年~1990年代に描かれた婦人像がよく市場で見かけます。雑誌の表紙用に描いていました。
具体的な買取価格はサイズ・構図・コンディションによりますが
10万~30万円前後
となります。
現在は鑑定機関も設立されて安心して作品が流通できる環境が整えられました。買取の際は<佐藤陽子・番町画廊>の鑑定書を取得する必要がありますが、査定後に取れますのでお気軽にご相談ください。
池田満寿夫の略歴
1934年の2月23日に旧満州国奉天市に生まれ、終戦の年に郷里の長野県長野市に帰りました。1952年の時、18歳で上京して東京芸術大学を受験しましたが不合格となりました。1955年に既成の美術団体を否定したグループ「実在者」の結成に参加して同グループの靉嘔(あいおう)の紹介により瑛九(えいきゅう)と知り合いました。翌年には瑛九が主宰したデモクラート美術家協会会員となり、この年から色彩銅版画をはじめた。
1957年に第1回東京国際版画ビエンナーレ展公募部門に「太陽と女」が初入選し、1960年に第2回東京国際版画ビエンナーレ展に作品を出品してドライポイントとアクアチントを併用した銅版技法で一躍注目されるようになりました。
1962年の第3回展ではニューヨーク近代美術館版画部長で同展の国際審査員ヴィリアム・S・リーバーマンにみとめられた結果、ニューヨーク近代美術館で日本人として初の個展「Prints of MASUO IKEDA」を開催しました。
1966年の第33回ヴェネツィア・ビエンナーレ展版画部門において、28点の出品作品により大賞を受賞し、制作の場もヨーロッパやニューヨークなどに移しました。この頃に制作した作品が最も市場評価が高いです。
70年代は雑誌写真などグラッフィックなイメージを画面にとりこみながらエロチィックなイメージを付与してきました。日本へ帰国後の1976年には琳派への関心から日本回帰を感じさせる平面作品を制作するようになった。この頃から小説や映画に関しても才覚を発揮して、晩年はメディアとの露出が増えていきました。
最後に
池田満寿夫は定期的に売却のお問い合わせがある作家ですが、作品の内容によって大幅に買取価格が変わります。今後売却する予定がある方は現在の相場を確認してみてはいかがでしょうか。市場価格を聞いてから売却するかどうかを判断するのも1つだと思います。
東京と横浜で絵画・美術品の買取を専門で行っており、丁寧で市場の評価に基づく評価額をご提案します。美術品買取専門店 獏へお気軽にご相談ください。