ジャン=ミッシェル・バスキアの代表的な芸術作品を紹介|なぜ人気なのか芸術的な凄さや死因など解説
ジャン=ミッシェル・バスキアの代表的な芸術作品を紹介|なぜ人気なのか芸術的な凄さや死因など解説
ジャン=ミッシェル・バスキアは黒人としてアメリカに生まれ、白人社会に対する挑発的な作品を残し、短い生涯を終えました。自身がマイノリティであるがゆえの社会への怒りが作品から感じられます。人種だけでなくLGBTなどマイノリティを取り巻く問題が盛んにニュースに取り上げられ多様性が議論されている昨今ゆえ、注目に値するアーティストと言えるでしょう。
ジャン=ミッシェル・バスキアの略歴
ジャン=ミッシェル・バスキアは、1960年にブルックリンにて生まれました。幼い頃より絵画や音楽に親しみ、自分自身が黒人というマイノリティであり、白人社会への怒りが彼の作品制作の原点でした。1988年に27歳という若さで亡くなりましたが、彼の存在はアートシーンのみならず音楽やファッションなど様々なカルチャーに影響を与えました。
1967年:アート専門の私立校として有名な聖アンズ学校に入学
バスキアは、1960年にハイチ出身の父親と、プエルトリコ人の母親のもと、ブルックリンの落ち着いた住宅街であるパークスローブで生まれました。バスキアには2人の妹がいて、英語とスペイン語が話せた母親は彼らに両方の言語を教えつつ、幼い子供たちを町の美術館へと度々連れて行きました。また、母親と祖父母からは音楽の影響を受けています。そのような幼少期を経て、1967年にはアートで有名な私立学校である聖アンズ学校に入学しました。
1968年:交通事故に遭い内臓破裂の重傷を負う
7歳の時にバスキアは車に轢かれて病院に運ばれ、腕を骨折しただけでなく内臓にも損傷を受けました。その際、母親がバスキアの入院の暇つぶしに贈った解剖学の大著であるヘンリー・グレイの「グレイの解剖学」がのちの彼の作風に強い影響を及ぼすことになります。
小学生時代のバスキアは語学に興味を示し、幼少期に母親より教わった英語とスペイン語のほか、フランス語も流暢に話せるようになりました。本を読むことが好きだったり、スポーツが得意な子供でした。
1976年:友人アル・ディアスとともにユニット「SAMO」を結成
バスキアが13歳の時に母親が精神病院に入院したり、彼自身も何度か学校を変えるなど、決して彼の人生は安定したものではありませんでした。1983年のインタビューでバスキアは絵の腕前には全く自信がなかった様子を示しています。彼自身の絵がコンテストや学校で認められなかったことに対して怒りを感じ、それが作品に込められていると述べています。
そのような中、1976年にバスキアは友人と共にユニット「SAMO」を結成しました。翌年春より始まった学校新聞をきっかけに、彼は新聞に真実を求める若い探求者についての漫画を描きました。
その漫画で描かれた若者は、時代に合った精神の拠り所を探していたところ、偽物の聖職者に出会い、彼から既存の宗教を聞かされます。やがてその若者はSAMOというインチキまがいの宗教の虜になってしまうというストーリーです。バスキアはSAMOについて「宇宙の概念」と題した説明をしており、そこでは彼の諦念や哲学が如実に表れています。
1980年:インディペンデント映画「ダウンタウン81」に出演する
バスキアが結成した「SAMO」の文字はグラフィティアートとして1978年以降ブルックリンのあらゆる場所で見られるようになりました。SAMOを用いた表現活動は、資本主義社会への批判を含んでおり、既存の価値に代わる価値を自分達の宗教を使うことで表現したものです。そのような中1978年にバスキアは共に「SAMO」を結成した友人との関係を絶ちました。その時のバスキアはすでにストリートグラフィティへの興味を失っていたのです。
1980年はバスキアにとっての転機の年となりました。というのも、19歳のバスキアはインディペンデント映画「ダウンタウン81」に出演し、活動の幅が広がりました。また、同時期に現代アートの巨匠であるアンディ・ウォーホルとも出会いました。
1980年:ニューヨーク開催のグループ展「タイム・スクエア・ショー」で初めて公の場で出展
グラフィティアートから遠のいたバスキアは、1980年にニューヨーク開催のグループ展「タイム・スクエア・ショー」に参加しました。この展覧会はニューヨークのいかがわしいポルノ地区の中心地にて、オルタナティブ・ギャラリーと現代美術市場に異を唱えるアーティスト集団によって開催されました。
「タイム・スクエア・ショー」は、受けを狙うような作品のほか、パンクアートやグラフィティ、パフォーマンスなど異色の作品が多く、バスキアは壁1面に作品を残しました。この展覧会ではバスキアのほか、グラフィティアーティストやフェミニスト、政治に興味を持ったアーティストが数多く参加していました。
1983年:現代アートの巨匠アンディ・ウォーホルと出会い共同制作を開始
1978年頃よりバスキアは知人の家を転々としながらクラブに入り浸りダンスをするようになりました。そこでは当時のアートシーンで活躍していた様々な友人ができました。そのような中、バスキアはレストランでアンディ・ウォーホルと出会います。バスキアはウォーホルに、当時のバスキアが制作していたコラージュの絵葉書とTシャツを買ってくれないかと頼みました。その際ウォーホルと共に食事をしていたメトロポリタン美術館のキュレーターがその後バスキアの支援者となりました。
1980年代初頭よりバスキアはドローイングやペインティングを中心としたアーティストとして活動し始めました。そのような中で1982年にウォーホルと再会し、共同制作を開始します。ウォーホルは同年にバスキアの肖像画にピス・ペインティングを施した作品を制作し、一方でバスキアは「ドス・カベサス」(1982年)の中で彼とウォーホルの肖像画を描きました。
代表的なコラボレーション作品として、「Taxi」、「45th/Broadway」(1984-1985)、「ゼニス」(1985)が挙げられます。
1988年:27歳の若さで死亡(ヘロインの過剰服薬が死因)
1982年にバスキアの初個展が開催されたり、音楽プロデュースをするほか、ウォーホルとの共同制作をする中で彼の活躍の幅がさらに広がりました。彼は当時はまだ無名歌手であったマドンナと交際しており、彼自身のギャラリーに連れ込んでいたと言われています。
1983年にはホイットニー・ビエンナーレの現代美術展に最年少で参加したアーティストとなりました。それ以降アメリカだけではなく、ロシアやオランダ、イギリス、ドイツにて個展が開催され、バスキアの名声は海外まで轟きました。
しかし、バスキアは自身の成功によりお金を稼ぐようになる一方で、偏執的な性格になり、薬物に依存し始めました。次第に彼の友人関係にも影響を及ぼすようになります。
それ以降もバスキアは個展を何度か開催し、1986年にはコム・デ・ギャルソン・プラスのショーで川久保玲のランウェイを歩くなど、ファッションシーンからも注目されるようになりました。
1987年のアンディ・ウォーホルの死後、バスキアは孤立を極め、さらに薬物に依存するようになり、うつ状態を悪化させました。その後も展覧会開催のためにパリやドイツを訪れるなど完全な孤独状態ではなく薬物依存から脱却したと言われていましたが、1988年にマンハッタンのスタジオにてヘロインのオーバードーズが原因で27歳の若さでこの世を去りました。
ジャン=ミッシェル・バスキアの作品の世界観からなぜ人気か解説
バスキア作品の特徴は、「新表現主義」と呼ばれている点、そして「挑発的二分法」を用いている点にあります。
「新表現主義」とは、1970年代後半より発展したアートムーヴメントのひとつで、1970年代のミニマム・アートやコンセプチュアル・アートへの反動として生まれました。バスキアをはじめとした新表現主義のアーティストたちは、抽象的な表現を用いつつ、鮮やかな色彩や感情的な表現手法で人体のような知覚可能な対象を描きました。
そこでバスキアは人種差別や奴隷制にまつわる事件や、実際のミュージシャンを描いたり、ヒーロー的存在に対して王冠のモチーフを用いました。彼の作品はアカデミックなアート用語では「新表現主義」と分類されるものの、彼の表現の根底にあるマイノリティの白人至上主義への怒りが共感を呼ぶほか、そのリズミカルな筆致はまるで音楽のベースラインのようであったために、アートシーンだけでなく音楽やファッションシーンからも注目されました。
また、バスキアを特徴づけるもうひとつの要素「挑発的二分法」とは、キャンバスの中に黒人と白人、ホームレスと富裕層といった対になる2つの要素を描くことです。彼はこの手法を用いることで社会に対するメッセージをより強固なものにさせました。
ジャン=ミッシェル・バスキアの代表作品を解説
ここでは、ジャン=ミッシェル・バスキアの代表作品である「黒人警察官の皮肉」、「untitled(頭蓋骨シリーズ)」「チャールズ・ザ・ファースト」を紹介します。作品からはバスキアの作品制作の根底にある白人社会への怒りや、音楽好きの彼ゆえのリズム感ある筆致がうかがえます。
「黒人警察官の皮肉」
「黒人警察官の皮肉」(1981年)は、バスキアが白人社会の黒人への抑圧を皮肉的に描いた作品です。この作品では黒人が画面に大きく描かれており、彼の横には「IRONY OF NEGRO PLCEMN(黒人警察官の皮肉)」というタイトル文字が書かれています。
この作品の最もアイロニカルな部分は、抑圧されている者(黒人警察官)が抑圧者(白人)の作った制服を着ていることです。また、バスキアは白人警察官を威嚇的に描いた「ラ・ハラ」を同年に描いています。この作品はバスキアが描いた数少ない白人男性作品であり、白人警察官の骨格が残忍に描かれています。
「untitled(頭蓋骨シリーズ)」
「untitled(頭蓋骨シリーズ)」は、1981年よりバスキアが描き始めたシリーズ作品です。バスキア作品は基本的に短期間で描かれるものが多い中、このシリーズは長期的に描かれています。
「untitled(頭蓋骨シリーズ)」では人間の頭蓋骨の内部と外部がグロテスクに描かれており、生と死をあわいを想起させる構図となっています。また、バスキア作品における頭蓋骨のモチーフでは、黒人アメリカ人の彼ゆえのアイデンティティに深く根ざしていることが如実に表現されています。
キャンバスにほとばしる絵の具の生々しさや、躍動感は、黒人音楽の独特のリズム感やグルーヴィーなベースラインを想起させます。バスキアの豊かな表現力を垣間見れるシリーズ作品と言えるでしょう。
「チャールズ・ザ・ファースト」
「チャールズ・ザ・ファースト」(1982年)は、ビバップ演奏者であるチャーリー・パーカーへのオマージュです。ビバップとは1940年代に誕生したジャズのジャンルで、モダンジャズの起源とされています。その中でもこの作品のモチーフであるチャーリー・パーカーは1940年代に活躍したアルトサックス奏者で、「ビバップの王者」と称された天才的存在でした。
バスキアはビバップ愛好家であり、それが彼の芸術活動の源でした。実際に彼は数多くの作品においてジャズミュージシャンやレコーディングについて言及しています。
この作品の随所で描かれている王冠は、ジャズ文化への王権の概念や、デューク・エリントンやナット・キング・コールといった天才ジャズミュージシャンへの才能への王冠だと考察されています。また、「THOR 」という単語が示すのは、ゲルマン神話における強さを象徴する神のことです。
この作品からバスキアが主張したいことについて、作家のジョーダナ・ムーア・サゲスは、「カートゥーン、グラフィティ、ジャズ・カルチャーなどのサブカルチャーを結びつけ、社会的、歴史的、芸術におけるヒエラルキーへの挑戦姿勢を表現したもの」と述べています。
ジャン=ミッシェル・バスキアの作品が鑑賞可能な国内の美術館一覧
ジャン=ミッシェル・バスキアの作品は、福岡市美術館、世田谷美術館、北九州市立美術館にて鑑賞可能です。
福岡市美術館
福岡市美術館には、バスキア作品「無題」(1984年)が収蔵されています。バスキアが24歳頃に制作したこの作品は、彼が幼い頃読んでいた解剖学の本の影響からか人体表現が特徴的です。また、キャンバス左下には日本の五重塔が描かれており、混沌とした世界観が表現されています。
住所 | 810-0051 福岡県福岡市中央区大濠公園 1-6 |
アクセス | 各線大濠公園駅より徒歩10分 |
営業時間 | 9:30~17:30(入館は17:00まで) |
料金 |
一般:200円(団体は150円) |
公式HP | https://www.fukuoka-art-museum.jp/ |
世田谷美術館
世田谷美術館では、主に近代から現代までの優れた芸術作品を所蔵しています。バスキアの作品では「SEE」(1985年)が収蔵されています。
住所 | 157-0075 東京都世田谷区砧公園1-2 |
アクセス |
東急田園都市線用賀駅よりバスにて「美術館」下車徒歩3分 |
営業時間 | 10:00~18:00(入館は17:30まで) |
料金 |
一般:200円(団体は160円) |
公式HP | https://www.setagayaartmuseum.or.jp/ |
北九州市立美術館
北九州市立美術館には、バスキア作品「消防士」(1983年)が収蔵されています。この作品は、バスキアと交際女性が喧嘩するところを消防士が取り押さえに来るシーンが描かれています。象徴的な作品を描く彼の作品の中では珍しく、日常が描かれた作品となっています。
住所 | 804-0024 福岡県北九州市戸畑区西鞘ヶ谷町21番1号 |
アクセス | 小倉駅、または戸畑駅より西鉄バス「北九州市立美術館」下車 |
営業時間 | 9:30~17:30(入館は17:00まで) |
料金 |
一般:300円(団体は240円) |
公式HP | https://kmma.jp/ |
ジャン=ミッシェル・バスキアに関する豆知識(トリビア)
ジャン=ミッシェル・バスキアは短い生涯だったものの、彼の死後は生前よりもさらに注目を浴びるようになりました。バスキアの生涯を描いた映画が公開されたり、バンクシーとのコラボレーションのほか、近年ではZOZOの前澤友作氏がオークションにて過去最高額で落札するなどブラックカルチャーシーンを代表するアーティストとなっています。
「黒人アーティスト」として呼ばれることを極端に嫌う思想を持っていた
バスキアの特徴のひとつは「黒人」というレッテルを貼られることを嫌っていた点にあります。彼の死後、ホイットニー美術館主催で大規模なバスキアの回顧展が開催され、それが契機となって彼の評価が高くなりました。そのこともあり、彼の関係者からエピソードがリークするようになりました。
関係者からの話によれば、彼自身が「黒人アーティスト」として呼ばれることを極端に嫌っていたとのことです。当時のニューヨークのアートシーンは白人男性が席巻していて、彼の声に耳を傾け理解しようとしたのは白人ばかりだったようです。そして、彼自身もそのことに疑問を抱かず、周囲も彼が黒人であることをさほど意識していませんでした。
バスキアの生き様を描いた映画「バスキア」が死後に全米で公開
1996年にはバスキアを描いた映画「バスキア」が全米公開されました。監督は「潜水服は蝶の夢を見る」といった作品で知られるジュリアン・シュナーベルです。バスキアを演じたのは「007」シリーズや「ハンガー・ゲーム」シリーズなどにも出演する名俳優ジェフリー・ライトで、アンディ・ウォーホルを演じたのはデヴィッド・ボウイといった豪華なメンツであることもこの映画の見どころでしょう。また、生前バスキアが組んでいたバンドメンバーも出演しており、バスキアファンのみならず、サブカルチャー好きであれば必見とも言える映画です。
大手アパレルメーカーのユニクロが作品をデザインしたTシャツを発売
ユニクロのUTシリーズでは数多くのアーティストとコラボしたTシャツが発売されています。ダニエル・アーシャムやKAWS、アンディー・ウォーホルはもちろんのこと、バスキアの作品もTシャツのデザインとなっています。
シンプルなTシャツにポイントでバスキア作品がプリントされており、可愛くおしゃれに着こなせます。また、自分の好きなアーティスト作品がプリントされたTシャツを手頃な値段から購入できるのもユニクロのUTの魅力といえます。
覆面アーティスト・バンクシーとバスキアの非公式コラボがロンドンに出現
2017年9月に覆面アーティストのバンクシーがロンドンに描いた壁画が突如現れました。バンクシーが壁画を描いた時期は、ちょうどロンドンにて20年ぶりにバスキアの展覧会が開催されました。彼の壁画にはバスキアへのオマージュと思わしき王冠のモチーフや警官の姿が描かれていました。
バンクシーはパレスチナとイスラエルの分離壁の目の前に「世界最悪の眺め」のホテルを開業したり、「悪魔」のテーマパークを街に出現させるなど、彼もまたバスキア同様政治的メッセージを込めた作品を制作しています。バスキアの死から30年経った現代も、彼が直面した問題は解決されていません。バンクシーはバスキアの遺志を継ぎ、アイロニカルな意図でロンドンに壁画を描いたのでしょう。
前澤友作氏が所蔵するバスキアの大作「Untitled」が約109億円で落札
ZOZOの社長で知られる前澤友作氏がアートコレクターであることは有名です。なかでも彼が2016年にバンクシー作品「Untitled」(1982年)をクリスティーズ・ニューヨークの戦後・現代美術イブニングセールにて62億円で落札し、これまでのバスキア作品の落札価格記録を塗り替えたことは記憶に新しい話です。
その「Untitled」が2022年5月18日にフィリップス・ニューヨークにて開催されたオークションにて8500万ドル(約109億円)で落札されました。バスキア作品に対する注目は現代アートファンだけでなくアートマーケットからも今後さらに高まることが期待されます。
ジャン=ミッシェル・バスキアの作品は獏にて強化買取中
バスキア作品はこれまでの白人中心の現代アートシーンに多大なる影響を与え、人種差別といったマイノリティが持つ政治や資本主義への怒りを表現しました。画家としてのみならず、詩人やDJ、音楽家といった多彩な才能を持った彼は、メッセージ性の強さ、それに反して精神的な危うさも持ち合わせており、表現だけでなく彼のパーソナリティもアートシーンを魅了しました。
当店では現在バスキア作品の買取を強化しています。アート作品は価値の判断が難しいため、スタッフが念入りに査定いたします。また、絵画だけでなく、骨董や茶道具など幅広く買取いたします。買取の流れや買取実績、ご不明点などございましたらお気軽にお問い合わせください。