アントニ・タピエスの代表作品や買取価格など詳しく解説
アントニ・タピエスの代表作品や買取価格など詳しく解説
アントニ・タピエス(Antoni Tàpies)は、ピカソ、ミロに続くスペインの現代芸術家として有名です。10代の多感な時期にスペイン内戦や第二次世界大戦を体験し、反戦や反政府といった政治的なテーマを持つ作品や、人間の本質に鋭く迫る作品を多く制作しました。
アント二・タピエスの作品は、イギリスのテートギャラリー、アメリカのニューヨーク近代美術館、イタリアのローマ国立近代美術館など世界中の著名な美術館に収蔵されています。今回は、そんなアント二・タピエスの略歴や代表作品、買取価格などについて解説します。
アントニ・タピエスの略歴
出典元:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
まずは、アントニ・タピエスの略歴や作風の変遷について紹介します。
1950年:バルセロナで個展を開催
1923年、アントニ・タピエスはバルセロナ(スペイン)の中産階級の家庭に生まれました。10歳頃に近現代のアートを紹介する雑誌を見て芸術に興味を持ち、独学で絵を描き始めます。
1945年頃にはゴッホの影響を受けた油彩画を描いていましたが、徐々にシュルレアリスム(超現実主義。無意識の表面化、無意識と理性との一致を目指した芸術運動)的な絵に移行し、ジョアン・ミロやパウル・クレーから影響を受けた絵画に取り組むようになります。この頃からアントニ・タピエスは哲学、文学、東洋思想などの幅広い分野に興味を持っていました。
アントニ・タピエスは、1950年にバルセロナのギャラリーで初めての個展を開催し、その後はフランス政府からの奨学金を得てパリに住まいを移します。10代の頃にスペイン内戦を間近で見ていたアントニ・タピエスは、この頃フランコの圧政を非難する政治的なテーマの作品も制作しています。
1950年半ば~1960年代:抽象表現主義に移行
パリに滞在したことにより、アントニ・タピエスの作風は1953年頃から再び変化を遂げ、アンフォルメルの流れをくんだ抽象表現主義に移行します。それにともなって藁(わら)、砂、大理石の粉などを混ぜ込んだ絵の具で壁のように巨大なカンバスに描く、ミクストメディア(2種類以上の異なる素材、媒体を組み合わせて制作された作品)の作品を制作し始めました。
この頃フランスやヨーロッパを中心に展開したアンフォルメルとは、第二次世界大戦後の痛手の中から生まれた激しい抽象表現が特徴のムーブメントです。荒々しいタッチや生々しい質感によって人間の本質に迫るのがアンフォルメルの作品の共通点です。
1952年以降数々の国際美術展に出品したアントニ・タピエスは、なかでも1958年のヴェネチア・ビエンナーレ(イタリア)や、1964年のドクメンタ(ドイツ)で高い評価を得ました。これらを経て、アントニ・タピエスはアンフォルメル派の芸術家として国際的に認められました。一方、1966年にアントニ・タピエスは反フランコ政権の政治活動によって逮捕され、罰金を科されます。
1970年代:ポップアートの影響を強く受ける
1970年、アントニ・タピエスはスペインのバスク地方におけるテロリスト死刑判決に抗議し、修道院に立てこもります。バスク地方といえばピカソの『ゲルニカ』(1937年)の舞台となった街のある場所で、当時は独立をめぐる運動が活発に行われていました。これ以降、アントニ・タピエスの作品に政治的な色合いを持つものがさらに増えてきます。
また、1970年代のアントニ・タピエスはアメリカで流行していたポップアートの影響を受け、身の回りの物体に目を向けます。そして家具の一部を貼りつけた絵画作品や、椅子を布で覆った立体作品を制作するようになりました。これにより、絵画としてではなく物体として、内戦の苦悩をよりリアルに表現することが可能になったといえます。
1879年、アントニ・タピエスはバルセロナ市民賞を受賞しました。
1990年:アストゥリアス皇太子賞受賞・アントニ・タピエス財団を設立
バルセロナにあるアント二・タピエス財団
屋上の装飾は『雲と椅子』という作品
アントニ・タピエスは、1990年にスペイン王室からアストゥリアス皇太子賞(芸術部門)を贈られました。また、日本では高松宮殿下記念世界文化賞を受賞します。さらに、同年「アントニ・タピエス財団」を設立し、若手芸術家の支援にも携わるようになります。
アントニ・タピエスは、1993年にヴェネチア・ビエンナーレで金獅子賞を受賞しました。1996年にはアントニ・タピエスの大回顧展が、香川県の丸亀市猪熊弦一郎現代美術館をはじめとした日本各地の美術館を巡回します。
2012年、アントニ・タピエスは生まれ故郷であるスペインのバルセロナにて、88歳でこの世を去りました。
アントニ・タピエスの作風や世界観
『Gran campana』(1994年)
アントニ・タピエスは、初期のシュルレアリスムの影響を受けた幻想的な作品を経て、1953年頃からはアンフォルメルの流れをくんだ抽象表現主義に作風を変化させます。同じく、その頃に油絵具に藁(わら)、砂、大理石の粉などを混ぜて厚く塗りこめたミクストメディアを作り始めました。
さらに、1970年代以降はポップアートの影響を受け、家具の一部を作品に貼りつけるなど、より立体に近い作品を制作するようになります。アントニ・タピエスの作品には象徴的な記号、数字、亀裂のようなものが多く存在するのもひとつの特徴です。
政治活動にもしばしば参加していたアントニ・タピエスは、その作品に戦争体験やフランコ独裁政権への批判を込めることもありました。彼は、当時のスペインの苦しみを絵画の枠を超えた物質に込めて表現し、社会に訴えかけました。
アントニ・タピエスは日本文化にも造詣が深く、禅、俳句、書道などの本を愛読していたといいます。座右の書は岡倉天心の「茶の本」であり、詩人の滝口修三と詩画集『物質のまなざし』を協働で制作したこともあります。
アントニ・タピエスの代表作品と解説
それでは、アントニ・タピエスの代表作品について初期・中期・後期のものから一つずつ紹介します。
ズーム
『ズーム』は、アントニ・タピエスが1946年に制作した作品で、65cm×54cmの板に油彩で描かれた作品です。アントニ・タピエスが20歳を越えた頃に描いたごく初期の作品で、明るい色彩や筆の跡(絵の具の盛り上がり)をそのまま残した描き方からはゴッホの影響が見て取れます。
この作品でもっとも目を引かれるのは、白く押されたアントニ・タピエス自身の手形でしょう。このような手形は、シュルレアリスムの作品において呪術的な象徴性を高めるために利用されました。また、天を仰ぐように手を広げるポーズは「オランス」といってキリスト教美術において祈りを意味します。この頃オランスは、アントニ・タピエスの重要なモチーフのうちの一つでした。
茶の上の黄土
長崎県美術館に所蔵されている『茶の上の黄土』は、アントニ・タピエスがアンフォルメル派の芸術家として国際的に認められ始めた1964年に描かれた作品です。一見して何が描かれているのかわからない構図ですが、その前後に制作した作品と関連付けて考えると、これを足を横からとらえたものだとわかります。
茶色い地面の上にある黄土色の足には傷があります。この傷については、抗議の象徴や抗議の結果傷つけられた懲罰の象徴など、さまざまな解釈ができるでしょう。しかしながら、傷つきながらも力強く大地を踏みしめている足からは確かな生命力が感じられます。
Sofa
『Sofa』は1982年に制作された62.8cm×91cmの版画です。エッチング、アクアチントの技法で制作されて、75部のエディションが存在します。 土壁のような質感、表面のエンボス加工、象徴的な数字や文字など、アントニ・タピエスの特徴が多く見られる人気の作品です。
アントニ・タピエスの作品の落札価格や価値について
1996年にアントニ・タピエスの大回顧展が日本全国を巡回しました。そのため国内で認知度が高まり、多くの作品が輸入されています。直筆の作品よりは版画作品の方が流通量が多い印象です。
アントニ・タピエスの作品は、大体4万円から15万円程度が相場です。なかでも記号や数字などが描かれているアントニ・タピエスらしい作品には人気が集まるため、値段が高まる傾向にあります。また、オリジナル作品は買取価格が高くなります。
アントニ・タピエスの作品は強化買取中
アントニ・タピエスの出身地、バルセロナ(スペイン)の風景
アンフォルメルを代表する画家アントニ・タピエスは、同じくスペイン出身のピカソ、ミロに続く20世紀現代美術の巨匠の一人ともいわれています。そんなアント二・タピエスの作品をお持ちで、売却を検討している方がいらっしゃいましたら当社にご相談ください。丁寧に鑑定させていただきます。
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