瑛九の代表作『田園B』や作風の変化について解説|価格の相場や名前の由来についてもあわせて紹介
瑛九の代表作『田園B』や作風の変化について解説|価格の相場や名前の由来についてもあわせて紹介
瑛九(Q Ei、本名:杉田秀夫)は、昭和初期に活躍した宮崎県出身のアーティストです。油彩画、写真、版画とジャンルを超えてさまざまな領域で自らの芸術を模索し、前衛美術の先駆者として若い作家たちに大きな影響を与えました。
今回は、瑛九の代表作品や価格の相場、少し変わった名前の由来まで幅広く紹介します。
瑛九の略歴
まずは、瑛九の略歴と目まぐるしく変化した作風の変化を追ってみましょう。
1911年:宮崎市に生まれ、眼科を営む父親のもとで育つ
宮崎市中心市街地
出典元:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
瑛九(本名:杉田秀夫)は、1911(明治44)年、宮崎県の宮崎市に生まれました。父親の杉田直(すぎたなお。俳号:作郎)は、眼科医でありながら俳人としても広く知られる文化人でした。
7人兄姉妹の次男として生まれた瑛九ですが、彼が3歳のときに実母の雪がなくなります。新しくやってきた母親の栄になかなかなじめないままに少年期を過ごした瑛九は、1925(大正14)年に旧制県立宮崎中学校を中退し、上京します。
1925年:上京し、東京美術学校やオリエンタル写真学校で学びを深める
瑛九は1925年に東京美術学校に入学するも、1年で退学してしまいます。この頃の瑛九は油絵の制作に力を入れていましたが、公募展ではなかなかよい結果を残すことができませんでした。
文才のあった瑛九は『アトリヱ』『みづゑ』などの美術雑誌に批評を寄稿するなどして過ごし、1930(昭和5)年に著名な写真家を多く生み出したオリエンタル写真学校に入学します。
1934(昭和9)年、瑛九は当時宮崎県の小学校教員として働いていた画家の山田光春に出会いました。翌年、瑛九は山田光春とともに宮崎県において「ふるさと社」を結成し、共に作品制作に励むようになります。
1936年:フォト・デッサン集『眠りの理由』を瑛九の名前で刊行
1936(昭和11)年、瑛九はフォト・デッサン集『眠りの理由』を「瑛九」という名前で発表しました。フォト・デッサンとは、印画紙の上にデッサンにもとづいた型紙や網目状の素材などを置き、感光させてから現像するという写真の制作方法です。
フォト・デッサンの独自性は美術界から高く評価され、瑛九はアーティストとして広く知られるようになりました。1937(昭和12)年、瑛九は洋画家の長谷川三郎を中心とした自由美術家協会の創立に参加しました。
1951年:埼玉県浦和市へ移り、この頃から銅版画と石版画の制作に打ち込む
かつてあった浦和駅西口駅舎(2006年)
出典元:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
東京都と宮崎県を行ったり来たりしていた瑛九は、1951(昭和26)年に埼玉県浦和市(現在は大宮市、与野市と合併してさいたま市となる)へ移り住みました。
瑛九は前年から独学でエッチング(銅版画)の制作にチャレンジしており、1952(昭和27)年にはエッチング集「小さな悪魔」などを刊行しています。
さら、1956(昭和31)年からは、石版画職人の金森茂からリトグラフ(石版画)を学び始めます。
分厚く重い石灰岩やプレス機を使った作業は大変であったものの、リトグラフの魅力にすっかり取りつかれた瑛九は、作品制作に没頭しました。そして翌年にはタケミヤ画廊でリトグラフ展を開催します。
また、瑛九は1951(昭和26)年にデモクラート美術家協会を設立しました。「デモクラート」とは、エスペラント語で「デモクラシー(民主主義)」を意味します。
既存の美術団体や画壇の権威主義に反対して生まれたデモクラート美術家協会には、関西在住の若手作家を中心に、瑛九の思想に賛同したアーティストが数多く参加しました。
1960年:点描による抽象表現に挑戦するも、心不全のため48歳で永眠
1950年代の半ば、瑛九は油絵の制作に再び熱中し始めます。1957(昭和32)年頃にはエアコンプレッサーを作品制作に取り入れ、切り抜いた型紙にエアコンプレッサーで絵の具を吹き付ける、フォト・デッサンを思わせるような作品をいくつか制作しました。
少しすると絵筆を使った表現に立ち戻り、1959(昭和34)年には代表作『田園B』を描き上げます。翌1960年には点描作品による個展を開催しますが、その後、心不全のために48歳で急逝しました。
瑛九の作品の世界観
美術評論家としても活躍した瑛九は、シュルレアリスム、キュビスム、印象派などの海外の作品や、国内外の思想から広く影響を受け、それを自らの作品に取り入れました。
アンフォルメルの大きなムーブメントが訪れていた1950年代の日本において、そんな瑛九は孤立した存在であったともいえるでしょう。
瑛九の画業のなかでは、フォト・デッサンや版画の作品、点描の油彩作品がとりわけ高く評価されています。瑛九は、油絵、写真、版画といった多分野において実験的制作を繰り返しながら自らの芸術を模索し続けましたが、40代半ばから制作した晩年の油彩作品は彼の芸術における一つの到達点といえます。
めまぐるしく作風を変化させた瑛九ですが、彼の作品の中に共通して流れているものは周りに左右されず自らの芸術を追い求める自由の精神です。
そんな瑛九の情熱は靉嘔(あいおう)、池田満寿夫(いけだますお)、磯辺行久(いそべゆきひさ)といった若手作家に多大なる影響を与えました。
瑛九の代表作品を解説
それでは、瑛九の写真、版画、油彩画それぞれにおける代表作品を、1点ずつ取り上げて紹介します。
フォト・デッサン集『眠りの理由』
『眠りの理由』は、1936(昭和11)年に限定40部で刊行された、瑛九のフォト・デッサン集です。フォト・デッサンとは、1920年代にマン・レイらが始めたフォトグラム(印画紙の上に直接物を置いて現像する表現技法)の一種で、瑛九による造語です。
瑛九は印画紙を画用紙のように捉え、光を使って絵を描くという意味で「フォト・デッサン(光のデッサン)」という言葉をつくりました。そしてスケッチブックにデッサンしたものを切り抜いて型紙とし、独自の表現を追い求めました。
『眠りの理由』は、大きさが30cm弱のフォト・デッサン10点によって構成される作品集で、現在は東京都国立近代美術館や横浜美術館に所蔵されています。
*独立行政法人国立美術館 / 東京国立近代美術館 / 瑛九 /「 眠りの理由」より 1
旅人
『旅人』は1957(昭和32)年に東京で開催された、第1回国際版画ビエンナーレ展に出品されました。38cm×52.5cmのリトグラフ作品です。
暗い森の中には、旅人を思わせる歩く人のような小さな影と、そのまわりをカラフルな風船のようなものがダイナミックに飛びかう様子が描かれています。鑑賞者の心をつかむ、色彩豊かで大変幻想的な作品です。
田園B
点描によって描かれた油彩作品『田園B』は、瑛九が亡くなる1年前の1959(昭和34)年に制作されました。
1957(昭和32)年頃にエアコンプレッサーを使った油彩作品を制作し始めた瑛九は、その後絵筆に立ち返って丸を印象的に描いた作品を制作するようになります。丸は次第に小さくなっていき、ついには点描で描かれるようになりました。
『田園B』は、青い色彩の中に赤やオレンジ色で星雲のような光りの集合体が描かれた、大変美しい作品です。宮崎県立芸術劇場(メディキット県民文化センター)の緞帳(どんちょう)は、瑛九の『田園B』をもとにつくられました。
『田園B』のほかに同じ年に描かれた『田園』(個人蔵)という作品もあり、こちらの作品は2006年になんでも鑑定団で5,000万円の値段がつけられています。
*みやざきデジタルミュージアム / 田園B / 宮崎県文化財課
*みやざきデジタルミュージアム / つばさ / 宮崎県文化財課
瑛九の作品は宮崎県立美術館にて鑑賞可能
出典元:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
瑛九の故郷である宮崎県の宮崎県立美術館は、瑛九の作品をメインに収集しています。時代ごとのさまざまな作品を所蔵しているため、瑛九の画業を体系的に学ぶことができます。瑛九のファンなら一度は訪れたい美術館といえるでしょう。
代表作品として紹介した『田園B』や絶筆の『つばさ』も宮崎県立美術館に所蔵されています。
緑豊かな宮崎県総合文化公園の中にある宮崎県立美術館は、宮崎県立芸術劇場、宮崎県立図書館とも隣接しており、宮崎県の文化の発信地として県民から広く親しまれています。
瑛九の作品の落札価格と価値について
続いて、2021年に落札された瑛九の作品を2点紹介します。いずれも予想落札価格を上回る金額で落札されています。
2021年:赤にむらがる黄|726万円
2021(令和3)年、ニューアート・エストウェストオークションズが主催するオークションにおいて、瑛九の『赤にむらがる黄』という作品が726万円で落札されました。
『赤にむらがる黄』は、瑛九が1958(昭和33)年に制作した37cm×44.8cmの色彩豊かな油彩作品です。 予想落札価格が350万円から550万円であったにもかかわらず、それを大幅に上回る金額で落札されて話題になりました。
*エスト・ウエストオークションズ / 瑛九 / 赤にむらがる黄
2021年:無題|57万5,000円
2021年、SBIアートオークションのLIVE STREAM AUCTIONにおいて、瑛九がアクリル・ペンで描いた『無題』が、予想落札金額の25万円から35万円を上回る57万5,000円で落札されました。
瑛九の作品の買取相場
瑛九の作品の買取ポイントは「年代」です。1950年頃から亡くなるまでの1960年の間に制作されたものが、高価買取につながりやすいでしょう。特に版画は市場にも出回りやすく買取しやすくなっています。
瑛九の版画の買取相場は、それぞれの作品の人気や保存状態などにも大きく左右されます。
幅は広いですが、具体的な金額でいうと数万円から数百万円程度での買取となることが多いでしょう。油彩作品はさらに高額となる傾向にあります。また、作品サイズも重要で、大きければ大きいほど高額買取につながりやすいでしょう。
瑛九に関する豆知識(トリビア)
最後に瑛九にまつわる豆知識を2つ紹介しましょう。瑛九の人柄が垣間見える興味深いエピソードです。
瑛九は家ではエスペラント語で会話していた
瑛九は兄の杉田正臣からの影響でエスペラント語を学び、一時は妻ミヤ子と高校でエスペラント語の講師をしていたほどエスペラント語が堪能でした。
エスペラント語とは、ポーランド出身の眼科医ザメンホフとその弟子が考案した人工言語で、全ての人の第2言語となることを目指して作られました。全世界で約100万人の人々がエスペラント語を話す「エスペランティスト」であるといわれています。
当時、エスペラント語は宮崎県では医学界を中心に普及していました。
瑛九は現代美術とエスペラントには「世界主義的である」という共通点があると考え、エスペラント語の普及に努めました。知人が瑛九の家を訪ねたときには、夫婦でエスペラント語で会話していたこともあったそうです。
瑛九には「たくさんの水晶玉」という意味がある
瑛九は、フォト・デッサン集『眠りの理由』を出版する少し前から、洋画家の長谷川三郎や美術評論家の外山卯三郎と親しくしていました。
『眠りの理由』刊行時から使われた「瑛九(Q Ei)」という名前は、瑛九が長谷川三郎や外山卯三郎と一緒に考えたものだといわれています。
外山卯三郎の好きな「瑛」(水晶玉という意味)という漢字と、長谷川三郎の好きな「九」(多数という意味)という漢字を合わせて名付けられました。
瑛九は「たくさんの水晶玉」という意味のこの名前を大変気に入り、家の表札にも「瑛九」という名前を使いました。妻のミヤ子も子供のような純粋さを持つ瑛九にぴったりの名前だと感じ、この名前を気に入っていたのだそうです。
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