具体美術の特徴をわかりやすく解説|代表作家や具体美術の誕生した背景や歴史を紹介

2022/10/28 ブログ

具体美術の特徴をわかりやすく解説|代表作家や具体美術の誕生した背景や歴史を紹介

近年、世界で再評価されているアートがあります。それが、日本から発信された具体美術です。具体美術という言葉を聞いても、その概念が明確でないという方も多いことでしょう。

 

日本の具体美術とは、どのような時代背景のなかで生まれ、どんな歴史を持っているのでしょうか。

具体美術の特徴とともに、ご紹介いたします。

 

 

具体美術とは?特徴を解説

 

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画像:flickr photo by Daniel Lobo

 

具体美術は、20世紀に日本で生まれた芸術です。

1950年代、世界ではアメリカを中心とした前例を見ない芸術が次々と誕生し、妍を競っていました。

 

そうした時代に、日本から発信されることになった具体美術とはどんな特徴を有しているのでしょうか。

具体美術について概略をご説明いたします。

 

 

18年間活動を続けた具体美術協会によって広がった「既存でない新たなものを作り出そう」とする運動

 

具体美術協会が誕生したのは1954年、そして活動に終止符が打たれたのは1974年のことです。

具体美術協会は画家であった吉原治良 を中心に、芦屋で活躍していた若い芸術家たちによって構成されていました。

 

1956年、具体美術協会は〈具体美術宣言〉にうたわれた、物質と人間との直接的な関係を美術によって表現することを目的とし、既存ではない新しいアートを創り出すための活動を繰り広げたのです。

 

第2次世界大戦後の芸術は、アメリカを中心に大いに盛り上がっていました。

日本における戦後初の前衛的な芸術家の動向が、具体美術という名前で形になったことになります。

 

 

具体美術協会は結成時17名、最終的には約60名が参加した

 

具体美術協会は、カリスマといわれた吉原治良を筆頭に、17人のメンバーによって活動が始まりました。

結成翌年に、新制作協会「0会」を率いていた白髪一雄や金山明、村上三郎や田中敦子など個性的なメンバーが加わります。具体美術協会は最終的には、芸術家60人を擁することになり、日本の美術史における一時代を築きました。

 

具体美術協会は展覧会、野外展、舞台店などさまざまな活動を行い、体を張った「パフォーマンス」や「体験型作品」「非物質的メディアの使用」など、それまでの日本になかった独自の芸術を展開したのです。

 

 

 

具体美術の誕生した背景や歴史

 

それまでの芸術とは一線を画す具体芸術は、なぜこの時代に日本に誕生したのでしょうか。

日本国内だけでなく、世界のアート界で再評価されつつある具体美術について、その誕生の背景や歴史を探ってみましょう。

 

 

1954年:吉原治良が兵庫県芦屋市で「具体美術協会」という団体を立ち上げたことが始まり

 

具体美術協会の設立は、1954年12月のことでした。

洋画家、吉原治良が関西を中心に活動する芸術家たちとともに、芦屋で「具体美術協会」を立ち上げたのが始まりです。

 

元二科会に所属していた前衛グループ九室会のメンバーであった吉原治良の提唱に賛同したアーティストたちが加わり、きわめて個人主義的かつ精神主義な活動を展開することになります。

1955年からは、機関誌『具体』も刊行しています。

 

 

1957年以降:抽象画家の団体として海外で紹介され、平面の作品が中心となる

 

具体美術協会は、18年におよぶ活動期間の中でいくつかの変化を遂げています。

最初の変化のきっかけとなったのは、フランスの美術批評家ミシェル・タピエの来日でした。

 

彼によって具体美術は海外に紹介され、その結果、具体美術は反芸術的傾向からタピエが名付けた「アンフォルメル」という様式へと変化していきます。

1957年以降の具体美術は、アンフォルメルに強く傾倒するようになり、平面的な作品が多くなりました。

 

 

1962年:吉原治良所有の土蔵を改修して「グタイピナコテカ」を開館し具体美術作家の作品展示などを開始

 

1962年、大阪中之島に「グタイピナコテカ」が開館します。

「GUTAI」という名で世界に知られるようになったアートを、美術館や絵画館という意味を持つ「ピナコテカ」で展示することを目的としていました。

 

吉原治良所有の古い土蔵を改修した美術館では、具体美術作家たちの個展が開催されたり、具体美術新人展も行われてるなど、協会の活動拠点となりました。

 

グタイピナコテカを舞台に、日本の芸術家が活躍するだけではなく、20世紀最大の美術批評家といわれるクレメント・グリーンバーグ、ジャスパー・ジョーンズやイサム・ノグチなど、海外で活躍する美術関連の人々との交流も盛んに行われました。

 

 

1972年:吉原治良の他界をきっかけに具体美術協会は解散となる

 

具体美術協会は、創設者であった吉原治良の存在がことのほか大きく、展覧会に出品されるメンバーたちの作品には、必ず彼が目を通したという説もあります。

その吉原治良は1972年2月に他界し、翌3月に具体美術協会は解散することになりました。

 

実に18年に渡る活動でした。

具体美術協会解散から半世紀を経た現在、彼らの美術や活動は再評価される機運が高まっています。

 

 

 

日本で著名な具体美術作家と作品を紹介|具体美術協会のメンバー

 

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画像:flickr photo by cea +

 

活動最盛期には60人のメンバーを擁したといわれる具体美術協会ですが、その中でも特に高名な芸術家をご紹介いたします。

具体美術協会のメンバーたちが生み出した作品には、どんな特徴があるのでしょうか。

 

 

吉原治良

 

具体美術協会を率いカリスマ性の高さで知られたのが、画家の吉原治良です。

吉原治良は1905年に大阪に生まれ、関西学院高校を卒業してまもなくの1929年、初めての個展を開きました。

 

1934年には二科展で特待賞を受賞、1938年には前衛グループ九室会を結成し抽象画家の若手として評価されるようになります。

1954年に、具体美術協会を設立してます。

 

「人のまねはするな」が口癖であった吉原治良は、1960年代に入ると「円」をテーマにした作品を多く残すようになりました。余白と線を重視したその作風は、日本の抽象画家のアイデンティティを追求した結果生まれたともいわれています。

 

晩年は円から漢字へとテーマを移した吉原治良は、1972年2月に死去しました。彼の死に伴い、具体美術協会も解散しています。

吉原治良の代表作には、《図説》(1934)、《火山》(1941)《白い円》(1967)などがあります。

 

 

田中敦子

 

管球や電球を使ったコンセプチュアル・アーティストとして国際的にも知られているのが、田中敦子です。

1951年に大阪に生まれた田中敦子は、京都市立芸術大学を退学し大阪市立美術館付設美術研究所で活動中、金山明に出会います。

 

1954年、金山明の勧めで白髪一雄が主宰する「0会」に出品、1955年から具体美術協会のメンバーとなりました。

活動初期には布を使った作品が多かった田中敦子は、具体美術協会参加後にはいくつもの電球を使用した作品を発表し、異彩を放つようになります。

 

その独創性が特に評価されたのは、1956年に製作した《電気服》でした。

第2回具体美術展で、田中敦子自身が100個の管球と20個の電球をボディスーツのように纏った作品は、国内外で取り上げられ大いに話題になりました。とくにミシェル・タピエは田中敦子を高く評価し、国際的に知られた作家たちと比肩しうる才能と激賞しています。

 

具合美術協会解散後も活動は盛んで、海外の美術展の出品も多数あります。

代表作には、《電気服》(1956)、《無題(ベルの習作)》(1954)などがあります。

 

 

白髪一雄

 

日本のアクション・ペインティング代表といわれているのが、白髪一雄です。

白髪一雄は1924年尼崎に生まれ、京都市立絵画専門学校を卒業後に吉原治良に師事しました。

 

学校では日本画を学び、のちに洋画に転向した白髪一雄が一躍有名になったのは、アクション・ペインティングでした。

画布に絵の具をぶちまけて、天井からつるしたロープにつかまり足を絵筆に作品を作るという激情的な抽象画が、具体美術のひとつのシンボルとなりました。

 

1950年代半ばからは、アンフォルメルの画家として国内外で高い評価を受け、1965年には第8回日本国際美術展で優秀賞を受賞しています。

フット・ペインティングによるダイナミックな作品は、ストイックさも失わない日本的な要素もあり、世界中にコレクターを持つの人気を誇ります。

 

代表作には、《水滸伝シリーズ》(1950年代~1960年代)、素足ではなくスキーを履いて製作した《丹赤》(1965)などがあります。

 

 

元永定正

 

具体美術のアーティストとしては、ユーモラスな作風で人気があるのが元永定正です。

元永定正は1922年に三重県に生まれ、1955年から具体美術協会に参加しました。吉原治良に師事し、抽象絵画をはじめさまざまな素材を使った立体的な作品を手がけるようになりました。

 

1958年からはアンフォルメルの影響を受けて、絵の具の流れや飛沫を使用する作風へと変わります。このころから日本国内外の芸術賞を受賞し、その才能が認められていました。

ヨーロッパやアメリカを巡遊してからは、作品に激しさが消え、簡潔さとユーモアが見られるようになります。

 

1970年の万国美術展では、夜のお祭り広場の演出を担当したほか、絵本の出版も行っています。

80年代には日本芸術大賞、ソウル国際版画ビエンナーレ展に入賞し、2007年には絵本の原画によって東郷青児美術館大賞を獲得しました。

 

元永定正の代表作には、《作品66―1》(1966)、《ZZZZZ》(1971)などがあります。

 

 

嶋本昭三

 

具体美術協会結成時からメンバーであった嶋本昭三は、非常に独創的なアイデアをアートに活用した芸術家です。

嶋本昭三は1923年に生まれ、鉄パイプに絵の具を詰めて爆発させる大砲絵画や、絵の具を入れたガラスを叩きつける瓶投げ、郵送で作品を交換するメール・アートなどを展開し、独自性では群を抜いていました。

 

こうした行為を伴った嶋本昭三のアートは、具体美術を端的に表現するものとして欧米でも高い人気があります。

雄大さを伴ったスケールの大きさもまた、嶋本昭三の作品の特徴でした。

 

京都教育大学や宝塚造形芸術大学などで教鞭をとり、後進の育成にも熱心に取り組んだ芸術家です。

嶋本昭三の代表作には《瓶なげ作品》(1962)、《あと雪舟》(1992)があるほか、著作には『芸術とは、人を驚かせることである』があります。

 

 

 

具体美術協会解散後、作家や作品たちが現代美術のさまざまな分野の先駆者として注目を浴びている

 

1972年、具体美術協会は創立者である吉原治良の死によって活動を終えますが、近年は新たな脚光を浴びています。

これまでに存在しなかったものを創ることをモットーとしていた具体美術協会のダイナミックで奇抜なパフォーマンスは、日本よりも海外で高く評価される傾向がありました。

 

21世紀に入り、その前衛芸術運動が多岐にわたるアートの先駆者として認められるようになりました。これをうけて、具体美術を回顧する美術展が、何度となく開催されています。

2004年には兵庫県立美術館で具体の回顧展が、2012年には国立新美術館で具体美術の18年の軌跡を追う美術展が開催されました。

 

2013年には、ニューヨークのグッゲンハイム美術館で具体美術展が開かれ、GUTAIの名を改めて世に知らしめました。

具体美術協会解散から50年、再評価の機運は各地で高まりつつあります。

 

 

 

具体美術を世界に広めたミシェル・タピエの提唱した「アンフォルメル」とは

 

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画像:flicker photo by Marco Raaphorst

 

具体美術が世界に知られるようになったのは、フランス人の美術批評家ミシェル・タピエに因るところが大きいといわれています。

1957年、具体美術協会はタピエが来日したことをきっかけに、アンフォルメル絵画へと変貌していった経緯があります。それはタピエ自身が、アンフォルメルの提唱者であったことに関係がありました。

 

アンフォルメルとは、1950年代のフランスを中心に展開した抽象絵画の動向を指します。

第2次世界大戦後、抽象絵画のマンネリ化が進む中、写実や形態表現に頼らない自動記述的な芸術に自己表現を託すという様式が生まれます。

 

これが、タピエが提唱したアンフォルメルです。

「タシスム」「熱い抽象」などとも呼ばれたアンフォルメルは、完成した作品が不定形であるところに日本の具体美術と似通った部分を見出せるでしょう。

 

 

 

具体美術の歴史や代表作家まとめ

 

具体美術とは、戦後の日本で初めて誕生した前衛美術を指します。

1954年、吉原治良によって設立された具体美術協会は、当時の若手芸術家を中心に非常に個性的な創作活動を行った団体でした。

 

足を絵筆とした白髪一雄、多数の電球を体にまとった田中敦子、瓶を投げて作品を作る嶋本昭三など、特に初期の活動は具体美術のあり方を象徴するものとして、再評価されつつあります。

 

21世紀に入ってからは具体美術をテーマにした美術展も多く、現代の美術にも大きな影響を与えています。

迫力やユーモアがあふれる具体美術の数々、機会があったらぜひ触れてみてください。

 

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情報参考サイト

日本現代美術振興協会

モダンアート協会

MOMA

東京都現代美術館

文化庁

文部科学省