2022/09/29 ブログ
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斎藤義重とはどんな芸術家?「もの派」のアーティストを育てた芸術家の代表作品や作品が観られる美術館を紹介

斎藤義重_ペンチ

斎藤義重(さいとうよししげ、1904-2001)は、昭和期の戦前戦後を中心に日本の前衛芸術を牽引したアーティストです。学生時代に構成主義やダダイスムの影響を受けて以降、楕円や矩形(くけい・長方形の旧称)の合板を用いた平面の作品から、晩年はインスタレーションの立体作品を発表するなど、一貫して抽象表現の可能性を追求し、独自の表現を確立してきました。20世紀後半の日本の現代美術を代表するアーティストの1人で、国際的にも高く評価されています。

 

また、1964年には多摩美術大学の教授に就任し、後に「もの派」を代表する芸術家となる関根伸夫や菅木志雄らを育成するなど、後世の芸術家に多大な影響を与え、97歳で亡くなるまで精力的に活動しました。

 

 

斎藤義重の略歴

Yoshishige_Saito_Shinchosha_..

出典元:ウィキペディア

 

まずは斎藤義重の略歴について簡単にご紹介しましょう。  

 

 

1904年:青森県弘前市に生まれ、中学生の頃に絵を描き始める  

 

1904年、斎藤義重は青森県弘前市に生まれました。幼少期に、陸軍の軍人であった父親の赴任に伴い、栃木、東京と移り住み、1917年に日本中学校(現・日本学園中学校・高等学校)に入学しました。幼い頃から父親の書斎でヨーロッパの建築や絵画、彫刻が写った絵葉書を見るなど美術に関心を寄せていた斎藤は、中学時代にはセザンヌやゴッホの作品などを手掛かりに、油彩の風景画や人物画を描いていました。

 

しかし1920年、斎藤は在学中に見たダヴィド・ブルリューク(1882-1967)をはじめとするロシア未来派の展覧会で、その作風に衝撃を受けます。ロシア未来派は1910年代に隆盛したアヴァンギャルド芸術の潮流で、ブルリュークは「ロシア未来派の父」とも呼ばれ、当時日本に亡命していました。その際、様々な新しい傾向の作品を数百点ほど持ち込んだため、それらをまとめて展示するなど、日本の前衛芸術の発展に寄与しました。 

 

それまで絵画とは見たものをそのまま描くものと思っていた斎藤にとって、そうした「絵画のイリュージョンの否定」は衝撃的で、以降の作品制作の根幹となりました。

 

 

1929年:構成主義やダダイスムに出会い、本格的に美術の世界へ 

 

20歳を過ぎた頃、斎藤は絵画を非力なものと考え絶望し、また当時ドイツ留学から帰国していた村山知義(1901-1977)の作品に触れる機会もあったことから、文学へ傾倒するようになります。しかし1929年、斎藤が25歳の頃に、ヨーロッパの前衛芸術を扱った雑誌でロシア構成主義やダダイスムの作品に触れ、再び美術の世界に戻ってきました。

 

1931年の第18回二科展にレリーフ状の「トロウッド」を出品しようとしますが、絵画部門と彫刻部門のどちらにも受け入れられず持ち帰りました。このエピソードは、既存のジャンルに当てはめることのできない斎藤の芸術を象徴するようです。

 

1933〜1935年までは、古賀春江・東郷青児らによるアヴァンギャルド洋画研究所に在籍し、構成主義やダダイスムなどから刺激を受けます。また1939年には第1回九室会展に出品、美術文化協会に参加します。しかし1953年には美術文化協会を退会し、以降はどの団体にも所属しませんでした。

 

戦時中、斎藤は軍用石鹸工場で働いていたため徴兵は免れましたが、残念なことに空襲でそれまでに制作した作品、小説の草稿、ノートなどが全て焼失してしまいました。

 

 

1957年~:第4回日本国際美術展や第6回サンパウロ・ビエンナーレなどで受賞を重ねる  

斎藤義重@新潮1960.12(ウィキ..

出典元:ウィキメディア・コモンズ

 

戦後、再出発を図ろうとした斎藤ですが、1954年に病気を患い、千葉県浦安市に移り療養生活を送ります。そして回復した後、1957年の第4回日本国際美術展では「鬼」を出品、K氏賞を受賞します。また、同年の「今日の新人 1957年」展では、「作品1」で新人賞を受賞し、「53歳の新人あらわる」と喧伝されました。戦後しばらくは世間から忘れさられた斎藤でしたが、再び注目を集めるようになります。

 

また1958年には、瀧口修造の知己を得て、日本で初めての個展「斎藤義重展」を東京画廊で開催しました。

 

60年代には、斎藤は国際的な美術展に度々作品を出品し、受賞を重ねます。1960年の第30回ヴェネツィア・ビエンナーレに出品した際は、自身初となる渡欧もしました。1960年の第3回グッゲンハイム国際美術賞展で優秀賞を受賞、1961年の第6回サンパウロ・ビエンナーレ展に「作品7」を含む13点を出品し国際絵画賞を受賞するなど、高い評価を得ました。

 

 

1964年:多摩美術大学の教授に就任し、多くの「もの派」のアーティストを育てる 

 

斎藤は1963年に横浜に転居し、翌1964年に多摩美術大学の教授に就任します。そうして、後に「もの派」と呼ばれる関根伸夫や菅木志雄といった芸術家を輩出します。しかし1973年、大学紛争が起こった頃、斎藤は理事会と対立し、大学を去りました。

 

1973年の「連続回顧展」を機に、斎藤は空襲で失った作品(「カラカラ」や「トロウッド」シリーズなど)を、残っていた写真と記憶をもとに制作する「再制作」を行うようになります。単に過去の作品を復元するのではなく、素材や構図が当初のものから変わっているように、同じコンセプトで新たに制作し直したもので、斎藤にとっては、それまでの自身の作品の総括となり、以降の「反対称」シリーズへと展開していきます。

 

また1978年には、東京国立近代美術館で、同館としては初めてとなる現代作家の回顧展「斎藤義重」展が開催されました。

 

 

1982年:東京芸術専門学校を開校し、1985年からは校長を務める 

 

1982年、斎藤は自身の教育理念を実現させるべく東京芸術専門学校(TSA:Tokyo School of Art)を開校します。自身も講師として着任し、その3年後の1985年には校長に就任しました。(TSAは2000年に閉校)

 

教育現場で後進の育成に注力する傍ら、自身の制作もさらに進化していきます。80年代には黒色に塗られた板を連結させた「複合体」シリーズを発表しました。

 

1984年には、長年の制作活動によって日本の現代美術へ大きく貢献したとして朝日賞を受賞。1993年には横浜美術館と徳島県立近代美術館で「斎藤義重による斎藤義重展ー時空の木」、1999年には神奈川県立近代美術館で「斎藤義重展」と、国内でも度々展覧会が開催されました。

 

そして2000年には越後妻有トリエンナーレに出品、翌2001年に93歳でその生涯を閉じました。

 

 

斎藤義重の世界観 

 

斎藤の作品は時代によって様々に変化していきます。戦前には、白い合板の上に、赤や黒など単色の合板を重ねたレリーフ状の作品(「トロウッド」)を制作しました。

 

1960年代にはドリルを使って画面を掘り込む平面作品を手掛け、そして「ペンチ」や「クレーン」シリーズといったラッカーで着色した合板を組み合わせた作品へと展開します。さらに、70年代には梱包に用いる細長い板材を組み合わせた「反対称」シリーズ、80年代には黒色に塗られた様々な形の板材を連結させた「複合体」シリーズを発表します。

 

戦前のレリーフ状の形態から、次第に立体的な作品、そしてインスタレーションへと移行し、2000年に越後妻有トリエンナーレに出品されたインスタレーション「時空」が、斎藤の遺作となりました。

 

時代によって様々な手法の作品を残してきた斎藤ですが、いずれの作品にもその根底には、「絵画のイリュージョンの否定」という思想があると言えるでしょう。

 

 

斎藤義重の代表作品を解説

 

日本の前衛芸術の先駆者的存在である斎藤の作品のうち、ここでは代表作である「トロウッド」「鬼」「ペンチ」「反対称」の4点について解説します。

 

 

トロウッド

 

1938年頃には「地」となる白色の合板の上に、赤・青・黒・白のいずれかに彩色された楕円状、もしくは帯状の板を重ねるレリーフ状の作品を発表しました。この一連の作品は、後に「トロウッド」と称されるようになります。この不思議な名称は、作品がまるでまな板の上に乗るマグロ(マグロ=「トロ」、まな板=「ウッド」)に似ていると評された(あるいは斎藤自身が呼ぶようになった)ことに由来すると言われ、戦前の斎藤の作品を代表する作品です。 

 

 

鬼  

 

現在、神奈川県立美術館に所蔵されている「鬼」は、1957年に制作された油彩画です。斎藤はこの作品で第4回日本国際美術展K氏賞を受賞し、戦後の再出発のきっかけとなりました。画面上部は白地に赤、下部は赤地に白で、それぞれ抽象的な図形が表されており、明瞭で強烈なコントラスが印象的な作品です。鬼の姿を具体的に表してはいませんが、作家の中で醸成された鬼のイメージが画面の上で再構築されています。 

 

『岩波日本美術の流れ6 19・20世紀の美術』(岩波書店、1993年)で、美術史家の高階秀爾は、この作品について「日本的なパターンを抽象化して造形的にも厳しい構成を見せながら、どこかおどけた表情もうかがわれる代表的作品と言ってよい」と述べています。

 

 

ペンチ  

 

「ペンチ」は、1966年~68年にかけて制作された作品群の1つで、ラッカーで着色した合板2枚を組み合わせペンチの形にし、土台となるパネルに取り付けた作品です。合板による“ペンチ”は、土台の裏にあるつまみを動かすと実際に動くようになっており、絵とはもっともらしい虚構を画面の中に生み出すものであるというこれまでの前提を覆します。同様のコンセプトによる作品として「クレーン」「ハンガー」といった作品もあります。

 

「ペンチ」1649072898(獏様).jpg

 

またこれらのシリーズは、合板の作品の他に版画作品もあります。版画の「ペンチ」は、絵の周囲を囲む黒い枠線をつかんで内側に引っ張るように表されています。合板作品と版画、どちらも二次元(絵画空間)と三次元(現実空間)の関係性に揺さぶりを起こします。

 

 

"反対称"正方形 

 

「反対称」シリーズは70年代後半に斎藤が取り組んだ作品群で、梱包用の細長い木板を組み合わせて左右対称となるように表された作品です。実際に作品の梱包などに使う木材を、着色せずにそのままの状態で組み合わせたこの作品は、それまでの平面的な作品(現実の世界と作品の世界を隔てる枠を持つもの)から、立体的な作品(現実と作品世界を隔てる枠の無いもの)へとつながる契機となり、ここから80年代行われるインスタレーション「複合体」シリーズへと展開されていきます。

 

 

斎藤義重の作品が鑑賞可能なのは神奈川近代美術館

 

神奈川県立美術館では、先ほど紹介した、第4回日本国際美術展K氏賞を受賞した「鬼」(1957年)をはじめ、水彩画や90年代のコラージュ作品、児童書の表紙原画など29点の作品が収蔵されています。また同館は1999年に「斎藤義重展」を開催しており、その経緯から、斎藤の没後に、遺族より斎藤の遺した書簡、ノート、手帳、写真といった資料群も寄贈されました。

 

 

斎藤義重の作品の落札価格とその価値について

 

生前から国内外で高く評価されてきた斎藤の作品は、オークションでも高額で落札されています。

 

 

2021年:作品|3,335万円

 

2021年1月に開催されたSBIアートオークションでは、斎藤義重の「作品」(ドリルされた合板、油彩)が、落札予想価格300~500万を大きく上回り、この時の最高額となる3,335万円で落札されました。これは落札予想上限の6.67倍に当たり、他にも奈良美智や草間彌生といった国内外で高い人気を誇る作家の作品も出品される中での記録となりました。

 

 

斎藤義重の作品の買取相場

 

合板を用いた作品など、抽象表現を追求した斎藤の作品は人気が高くなっています。作品によっては百万を超える場合もありますが、水彩作品などであっても数十万円ほどになるかと思います。

作品の状態などによって買取価格は変わりますので、まずは一度弊社にご相談ください。精一杯の買取価格を提示させていただきます。

※斎藤義重の署名は「Yoshishige Saito」「Giju Saito」あるいは「Saito G」があります。

 

 

斎藤義重に関する豆知識(トリビア)  

 

斎藤義重は学生時代文学青年だった  

 

略歴でも触れましたが、幼少期から絵画に親しんでいた斎藤ですが、学生時代は絵画よりも文学に没頭する時期がありました。海外の作品ならロマン・ロラン、ドストエフスキー、チェーホフ、日本の作家なら佐藤春夫や芥川龍之介、武者小路実篤などを読んでいたようです。

 

また、斎藤義重が残したノートや日記類を活字化した『無十』(千石英世編、水声社、2016年)が出版されています。戦後の療養生活の頃の日記や、斎藤の芸術に対する思考、日々の日常的な出来事などが様々記されています。長短様々な文章には小説さながらの文体で書かれたものもあり、文学青年だった斎藤の片鱗を感じさせます。

 

 

斎藤義重の作品は強化買取中 

 

既存の枠組みにとらわれず、常に新しい表現を模索し続けた斎藤義重の作品は、国内外で高く評価されています。

 

当店では現在斎藤義重の作品の買取を強化しています。アート作品は価値の判断が難しいため、スタッフが念入りに査定いたします。また、絵画だけでなく、骨董や茶道具など幅広く買取いたします。買取の流れや買取実績、ご不明点などございましたらお気軽にお問い合わせください。

 

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